My Research Memo + Silly Story

個人的に興味があったことや、研究やプロジェクトに関する備忘録やプロジェクトの後輩に向けての資料についてまとめていこうと思っています。真面目なこと以外のこともブログに書こうかなと思っています。

日々の不満をまとめて整理する

最近のできごと

私が所属している研究室を離れて、別の研究室に変わりました。 自分の中では整理できた内容ではあるが、そのことを現在所属している 研究室の教授に申し上げたところ、様々なことをおっしゃられて 私自身、感情にモノを言うことは負けだと思っているため、その時は とにかく冷静を保つことを心がけていました。

しかし、私はまだ20数年しか生きていないガキであるため どこか感情を爆発させる場がほしいため、このブログにその思いの丈 を書くことにしました。

内容

正直なところ、自分がすばらしい人間だと思っていはいない。私は基本的に 利害を重要視している。だから、基本的につかえないと思った人間は容赦なく ばっさり縁を切っているような人間だ。

この文だと勘違いされるが、つかえないというのは最低限のことができない人で あまり当てはまる人はいない。利害と言っても自分に金が回るといった利害ではなく その人といっしょにいて楽しいかどうかといった至極単純な利害である。

まぁ自分の特徴をあげればコミュ症であったり、初対面の人や慣れていない人に対して 隙や弱みを見せないといった特徴である。コミュ症はしょうがないが、後者は普通当たり前 ではないだろうか・・・・

ある程度ダメな特徴はわかっているが、それを相手に感じないように前学期私としては いろいろ話したりとか行動を起こしました。しかし結果はカカシとしゃべっていただけ 同じ研究室の人間はいなく、カカシしかそこにはいないと感じるようになった。

今思えば、自分にできることはあったかもしれない。私としては、それを何とかするのが 院生であったり、教授であったりするのではないかと思う。しかし、いい年した学生を 面倒見るなんてたいへんであるため、全面的にやれというわけではない。すこし話題を提供したり ほんのすこしの足掛けが欲しかった。 最近行った面談では、この結果はすべて私が悪いと言われた。正直、感無量である。私はわたしを 責めることができるのは私しかいない。もし責めるのであれば、なにかしら行動いてからにしてほしい。

言われた当初、悲しみや怒り、発言の意味を考えるといったことが同時に起こった。もう話し合いに というより教授の稚拙な考えを聞いてるだけだった。一体、なにをどう判断したら言えるのだろう。 今この記事を書きながら思うことは、いじめられるほうに問題があるということを思い出した。

内容2

私のことをプライドが高く、負けず嫌いと教授は見ている。実際、そんなことはない。プライドが高いなら 思いの丈をこんなブログに書いて惨めにならない。負けず嫌いなら教授に対して歯向かっている。実際は 逆である。

そんな教授が不満があるなら、言ってよと私に尋ねる。しかし、多くの人は面と向かって文句など言える人は 少ない。ましては自分のことを正しく見ていない人間に文句など言えるわけがない。文句も悪口をしっかり 言葉を受けめてもらえて、初めて意味を成すと思う。コミュニケーションというのは少しづつ、受けて止めて いくための価値観の共有をするために必要だとわかった。

内容3

私は、木をみて森をみていないから惜しいといった。正直、どんな発言よりもこの言葉の意味が 一番印象に残っている。何を木と例えているのか教授は恐らく技術の基盤の知識、森をその技術の ことを指していると思う。本当にそうなのだろうか、私は基盤を知らないと何も始まらないと 思っている。教授からは遠回りしているように見えるかもしれないが、私の深層学習といった学習系の 地図は真っ白である。つまり、何も知らない。ここの単語の意味とかわかっても全体像を把握できていない。 いうなれば、森に迷子になっている。そんな人間に森を見ろと言われも迷子のままである。しかし、 その森の木を切ってみて木輪を見て方角を理解したり、苔の位置とかでも方角を理解できたりする。 だから、木を細かく見ていかないといけない。そして、迷子から森の番人といった森を支配できる ようになることが価値があると思っている。

最後に

今の教授は自己顕示欲が溢れていたり、自分が正しいということを常に思っている。いい意味で言えば 自身が溢れている先生、悪く言えば周りを見ていないお山の大将である。 はっきり言ってしまえば、尊敬できない人間だ。 だからと行って教授とか変わったことすべてをゼロにするのではなく、そこから自分の理想に 近づくためのタブーを考えて、そのタブーを犯さないように気をつけて生きていこう。